序文

序文

本書執筆のきっかけ・・・それは私がかなり幼い頃、ものごころがつくかつかないかの子供時代のうっすらとした記憶・・・それが大きなきっかけのような気がする。
1960年代の初頭だと思うが、ある日母がエキゾチックな香港の切手を何枚か家に持って帰ってきた。その時初めて私は、母が1957年から働いていたこの会社に何か特別なものを感じ取った。母はもともと専業主婦で、正式に働いたのは後にも先にもこの会社だけだった。
この会社の名前はアーリング・パーション株式会社といい、クングス通りというストックホルムのおしゃれな繁華街にオフィスがあった。そしてペン・スペシャリステンという屋号の高級万年筆や文具を扱う店やヘネスという名前の洋服の店を展開していた。
どうやら私が4歳の時に、母はパーションのビジネスと具体的に関係を持つようになったらしい。そのころ母がアーリング・パーション株式会社の経理の一部をリーディンゲにある私達の自宅の2DKで行うことになった。請負で経理を主婦達に委託するのは、時代の流れに敏感なこの会社の新たなアイデアだった。現代風に言うとアウトソーシングと呼んでも差し支えないだろう。
なんとなく記憶の片隅にあった出来事も、たぶん円満に母が契約満了するにあたり、すぐに普段の生活では思い出すこともなくなった。今回の執筆を機に実家の書類を調べてみたところ、1966年に発行された退職時の推薦状には

『ミセス ペットション(私の母)・・・常に勤勉で正直、信頼できる人物』

と書かれている。
この衣類販売チェーンに私が再び注目するようになったのは、それから数十年後の事である。その頃には私の母が他界して月日がかなりたっていた。私は青年時代左翼的な考えに傾いており、スウェーデン経済といえば大銀行とボルボ、アーレンダルス造船所、アトラスコプコ(私もこの工場で勤務したことがある)という大企業を中心に世の中を見ていた。スウェーデンにある15の資本家一族の名字はヴァレンベリィ、ブロストローム、ボニエルのいずれかだった。
1980年代にボニエルが所有するスウェーデン版ビジネスウイーク誌で働くことになっても、相変わらずH&Mの事は記憶の片隅にもなかった。当時、私や他のジャーナリスト仲間の興味や関心は株式市場の熱狂、スター証券の花形ディーラー達による活躍の様子や、様々な情勢が変化する政治勢力の争いなどがほとんど全てだった。
もちろんトレンドとしてスウェーデンの電子通信分野やメディカル分野の先端技術やIT技術が織りなすニューエコノミーには関心があったが、私はそれだけではなく、森林や鉄鋼といったスウェーデンの従来の基幹産業にも同じくらい関心や情熱を向けていた。私の目の前には誇り高き基幹産業の歴史と今そこにある危機や統合のようなニュースがあった。
その当時のH&M(ヘネス&マウリッツ)には“ニュースになるようなトピックは何も起きず”ただ拡大に拡大を重ねているだけに見えた。しかも商売と広告の規模は当時それ程大きな規模ではなく、ましてやファッションという分野は私にとって専門外であり、全く興味を持つことはなかった。またH&Mにはパーシー・バーネヴィック(ABB企業グループの前最高経営責任者)のようなスタイルでマスメディアに登場し刺激的で魅力的でやり手なパフォーマンスをする社長もいなかった。
余談だが以前、私はこのスーパーリーダーに魅せられて、仲間のマーティン・ハーグと共に彼のキャリアとアイデアについて一冊の本“パーシー・バーネヴィック:権力、伝説、人物(1998年出版、エーケリッズ出版社)”を書いたほどだ。その著書を書き進めるうちに私達はバーネヴィックという人物は古い産業界の巨大企業を再生、合理化、そして改革する人物なのだと確信するに至った。しかし彼はテトラパック社、IKEA、ヘネス&マウリッツの創業者達がしたように、企業を一から建て上げる事はしていない。
そこに注目しピッレ(愛称ピッレ(Pirre): 本名ペーテル・ヴァレンベリィ。スウェーデンの財閥一族ヴァレンベリィ家の一人。)、PG(PG:ペール G ジレンハマー。ボルボ社の前最高経営責任者)、それにパーシー(パーシー・バーネヴィック:ABB企業グループの前最高経営責任者)といった昔ながらのビジネス界の偉人達が一から立ち上げられることができないのであれば、このように企業を成功に導いた人物がスウェーデンには実はもっと多く必要だったはずなのではないか、とあらためて考えるようになった。
M&A(企業合併・吸収)に頼らず、才能やアイデアから企業を成長させ、企業価値の上昇をなし得たアントレプレナーへの興味はこの頃、明らかに私の心のうちに生まれはじめていた。
そのころ立て続けにラウシング(テトラパック社創業者)やイングヴァル・カンプラード(IKEA創業者)に関する図書が姿を現した。しかしパーション家のなしとげた成功に関する書籍は誰も発行していなかった。それを見て私は自問した。H&MはテトラパックやIKEAよりも劣っているのだろうか? そんなことはない。彼らの成し得た事もまた、すばらしい業績ではないだろうか? 様々な側面から見ても私はそう考えるに至った。
そんな思いを胸に抱きつつ、この本をめぐって私と出版編集者の計画が形になりだしたのは、H&Mのアメリカ合衆国進出が軌道に乗りはじめた頃だった。私はとまどいながらも服飾小売りという新しい分野へと足を踏み入れることになり、以前興味を持った証券の分野とは畑違いの魅力を感じていた。
しかしその頃私達の主要な仕事は、ダボス会議でプーチン大統領やマイクロソフト創業者のビル・ゲイツなどを取材することや“報告書を読みまくっていた”ひげの生えたプロジェクター使いの魔術師、ABBの最高経営責任者パーシー・バーネヴィックについて調査をすることに忙殺されていた。
そのとき私はひょんなことからある富裕層の男性に会うことになった。彼こそがステファン・パーションである。彼はH&Mの創業者の息子であった。彼はこまかく分厚い報告書が大嫌いらしく、それより華やかなセールスカーペット・スタッヅブーズコーレンという会員制クラブでマグヌス・ヘーレンスタム(スウェーデンの俳優、コメディアン、そして司会者)やハッセ・アルフレッドソン(本名ハンス-フォルケ・アルフレッドソン。スウェーデンのコメディアン、映画監督、作家、そして俳優。)と談笑する事を好んでいた。

本書を書いた前提とその出発点については第1章で詳細に述べている。この序文に記すのは、春の出版予定が秋へと延期された事を我慢してくれた出版社への感謝の気持ちである。もし私がファッション業界で働いていたら、こんなに粘り強く取り組めなかった。
私の愛する家族からはひらめきと様々な種類の助けを得た。ピアはH&Mとはまったく違う、同業他社の大企業の世界についてすばらしい情報をくれた。エヴァのおかげで私はカプリパンツとジャズパンツの違いや、十代の若者達のファッションとはどれだけ重大なものかを理解できた。十二歳のヴィッレは日々私を叱(しつ)咤(た)激(げき)励(れい)しながら、彼が探偵小説を数日間で丸々一冊書き上げるのにたいして、私が一章書き上げるのになぜそんなに時間が掛かるのかと不思議そうにしていた。父のベルントは間違った表現を見つけると即座に指摘し、ラディカルな議論によって、常に私が最新の情報を取り入れられるようにしてくれた。
協力してくれた家族に感謝したい。しかし本書はこの本を執筆する運命に導いてくれた母、インイェイエルドに、やはり捧(ささ)げたいと思う。

2001年9月 ストックホルムにて

ブー・ペットション