ヒストリー
第1章 始まり
狐(きつね)や狸(たぬき)を束にして従えるカリスマ
『極度の心配性だけが生き残る』
アンディ・グローブ インテル元CEOのコメントより
私はH&Mの物語はどのようにして始まったのかと聞いた。するとアーリング・パーションは目を細め、 薄笑いを浮かべた。1938年にどうやってストックホルムに来たのか、彼は口を開くたび違っていた。あるインタビューではヴェステロースからストックホルムまでの120kmを自転車に乗ってきたと言い、またある時には自転車を電車に乗せてやってきたと言った。アーリングは強いヴェストマンランド県特有のなまりのある言葉でこう言った。
「食肉処理場で知り合ったやつと一緒にトラックに乗ってきたんよ」
彼はそう言うと、ユールゴード橋の傍(おか)にある自宅の角部屋からまっすぐに見える12月の太陽を、わずかの間眩(まぶ)しそうに見つめていた。スウェーデンはこの季節、昼間でも夕日が差し込むようにしか太陽はあがらない。
はじめの頃、この老いた企業家は、私のことをからかっているのかと思った。しかし私は突然あるジャーナリストの言葉を思い出した。それは次のような内容だった。
『このH&M、ヘネス&マウリッツの創業者の本質は老(ろう)獪(かい)な狐(きつね)や狸(たぬき)などではなく、そのような人々を束にして従えるカリスマなのだ』
そこである疑念がふつふつと湧いてきた。それは歴史上の真実などアーリング・パーションにとってはどうでも良いことなのではないだろうか? また彼がその創造力の源として偶然選んだファッション分野と同様に絶対的なものではなく、根本的なところでは、まったく興味がないのではないのだろうか?といった創業者に対する畏敬の念が豆粒ほどもないような疑念だった。
今では、トラックの話も昨日聞いた電車の話もどちらも同じくらい真実に思える。しかしどちらが真実であれ、実際そんなことを後世の人々が問題にするだろうか? 彼はいずれにしても自分の望む所へとやってきたことには変わりがない。
「ワシらはなぁ! 本なんか出すことはないんや!」
私はこの生ける伝説となっている人物に初めて会った時、あろうことか彼はヴェストマンランドなまりを隠さず強い怒りに満ちた通告を容赦なく叩(たた)きつけた。それはH&Mがニューヨークの五番街に最初の米国の店を設立して約9ヶ月後のことだった。
当時83歳のアーリング・パーションは空の旅の後で疲れており、胃の具合も悪かったようだ。それでもダークカラーのスーツを着てネクタイを締めた彼はドアの前で187 cmの身体をまっすぐに伸ばして立っていた。購買欲でいっぱいのマンハッタンの住民達がブティックに殺到し、窓の外では行列が幾重にも連なって続く間中、彼はスフィンクスのように表情を崩さなかった。
とはいえ彼はかすかな誇りと、服飾業界にごくわずかながらでも爪痕を残した感触を抱いていたに違いない。大西洋を飛び越えて店舗を設立する事は、アーリング・パーションにとって夢がかなったことを意味していた。それは、はるか昔、彼が第二次世界大戦直後のアメリカ合衆国への視察旅行中に得た、ファッションチェーン構想がついに実を結んだ決定的瞬間だった。
アーリングの出身都市ヴェステロースの大通りにあった狭い店舗から始まったファッションチェーンは、2001年の春には14カ国に800もの店舗を構えるまでに成長していた。
今やスタッフの人数は4万人ほどに膨れ上がり、それに加えサプライヤーとしてトルコからモーリシャス、ポルトからプノンペンまで世界をまたにかけて、数十万人の紡績工が各事務所を通して間接的にH&Mの業務に従事している。
大都市のショッピングストリートにある赤いH&Mのマークは、ヨーロッパの人々にとって日常生活の一部になった。スウェーデン人は海外旅行に出ると、いたるところでH&Mのブティックに出会い、母国にいるような錯覚と誇らしさとを同時に感じる。その感覚は以前Volvoを見たときの感覚と同じようだ。そのことは逆に言えばスウェーデン以外の国の人々にとって、スウェーデンのシンボルが様変わりしたことを意味している。
この年の前の冬に当時フランスの大統領であるジャック・シラクがストックホルムを訪問した際に、ホスト側への賛辞として昨今のフランス人はIKEAで家具を買い、“若者達は”H&Mで服を買うと演説した。
その時、シラク大統領は、H&Mの創業者が今自分の横にいるスウェーデンの首相ヨーラン・パーションと同じパーションという名前であること。またヨーラン・パーションがカトリーネホルムス市の市長だった時に呼ばれていたあだ名が“全ての決定者”であること。そしてH&Mの創業者パーションがヨーラン・パーション首相より“全ての決定者”という称号にふさわしい人物であることはさすがに知らなかっただろう。
歴史的に見ても脆(ぜい)弱(じやく)だったスウェーデンのアパレルチェーンがそのコンセプトをフランス人、ドイツ人、イギリス人、そして今回はアメリカ人達のもとに輸出して成功するなど、あり得ない事だった。H&Mは独自の製品があるわけでも、何か革命的な流通方法があるわけでもない。ファッションに日々目移りする顧客をめぐり、先行する多くのライバルの隣に店舗を構えて常に挑戦し続けてきただけだった。その結果、1社また1社とライバル達は、価格、ショーウインドウ、常に移りゆくファッションなど総合的な勝負で敗退し、去っていった。
一度はアーリング・パーションが見本にしたオランダのC&A社も、2000年、ロンドンのオックスフォード街のクリスマスバーゲンを最後に撤退した。この本の出版時、同チェーンの約100店舗にも及ぶ全イギリス店が閉店し、そのうちの6店舗で新たにH&Mが開業した。同様にマークス&スペンサーが2001年の間に白旗を上げ、ヨーロッパ各国から撤退していった。パリではアーリング・パーションが2月にその設立を見届けたオスマン大通りのH&Mフラッグシップ店の目の前にあったマークス&スペンサーブティックが、その地を離れることになった。
どのようにしてH&Mは国際的な企業に?
単純なビジネスアイデアによりこれだけの業績を収めたのは特筆するべきなのだろう。しかしあまりに単純だからこそ、これまで正しく評価されてこなかったとも言えるだろう。
H&MはAGA社やテトラパック社のようにオリジナリティを前面に押し出す典型的な自社開発企業ではない。またIKEAのようにスウェーデン人の心にしっかりと根付いているわけでもない。こう言っては何だが、ファストファッションを若い女性達に販売するといったどこか軽い、いわば必要かどうかすら疑わしいH&Mよりも、住まいやオフィスを心地よく飾るというIKEAの方がどこか私たちの気持ちの中にすっと入ってくるような気がする。
そのようなスウェーデン人の感性によるものなのかどうかはよくわからないが、IKEA率いるイングヴァル・カンプラードが国民の家庭に誰よりも多く家具を提供し、ラウシング兄弟率いるテトラパック社の実用的なミルクパッケージが世界を席(せつ)巻(けん)している間、アーリング・パーション率いるH&Mはスウェーデンのテキスタイルと被服産業を荒廃させ、ファッションの志向を低俗化させたと非難を受けていた。
しかし1997年の創業50周年の後、初めてアーリング・パーションが築いたものがどれほど素晴らしいビジネスモデルだったのかが明らかになり、ファッションや資本が国際化したこの世界にその価値が紹介された。
ミレニアムの変わり目、H&Mはストックホルム証券取引所においてエリクソンに次ぐ第二位の企業になり、ステファン・パーションの持つ850億クローナの株式は彼をヨーロッパでも上位に入る資産家に押し上げることになった。
その後には、失われた1年とも新たな時代の夜明けとも言える、不思議な期間が続いた。アメリカ合衆国とスペインでH&Mが同時にオープンする1~2週間前、CEOを務める若き経済学修士ファビアン・モンソンが突然退職し、インターネット企業、スプレイ社の取締役会の一員になった。
モンソンの後釜に座ったのはデンマーク人の元ディスプレイデザイナー、ロルフ・エリクセンであり、彼は前任のモンソンよりも20歳程年上だった。膨らむ経費、あまりにも斬新なファッション、上がり続けるドル相場、暖かな秋の気候といった一連の要素によりH&Mは5年間の利益曲線において、始めての下落のカーブを経験することになった。
株式相場が実態を超えるほど高騰した後、外国の投資家達は懸念すべき兆候が現れるやいなや、すぐに撤退し始めた。あっという間にH&Mの市場価値は半減し、時価総額上でステファン・パーションは40億クローナ目減りすることとなった。しかし問題があったポイントはほとんど早期に解決し、H&Mは不振からあっという間に立ち直った。株式は思惑や折り込みなどが絡むため、実態とはまた別の世界なのだ。
H&Mはアメリカ合衆国北東部だけでも2003年までに85店舗、また2005年までに150店舗近く開くことを目標にしている。しかしヨーロッパにおいては、H&Mはイギリス、フランス、スペインといった国々での出店はほとんど何もしていないに等しい。イタリア、それに東欧は店舗展開では未開の地だった。またライバル社のGAPが大きな成功を収めている日本も同様だった。
H&Mはいかにして他にいくらでもある地域の洋装店の1つから国際的なチェーンにまで上りつめたのか。それはこれまで語られてこなかった物語である。
H&Mの仕組みがどのように築かれ、その後どのように運営されていったのか、その全体像もほとんど語られてはいない。その空白の部分を埋めることへの欲求がこの本の根本的な源泉であり動機である。
アーリング・パーションは幾度となく長いインタビューに応じてくれ、この物語の見えないところを埋めてくれ、貢献してくれた。また当時のマーケティング・マネージャー、カーリン・ステインヴァルは1989年に出版された図書“ファッションルーレット”の中で貴重な目撃証言を述べている。しかしながら彼女はH&Mが国際化の波に拍車がかかる前に離職し、その後ステファン・パーションが父親から指揮権を引き継いでいった。
このほんとうにスムーズに移行した世代交代も、私の興味を惹(ひ)いたもう1つの事象だった。事業の継承は往々にしてベンチャー企業のアキレス腱(けん)である。テトラパック社においてはラウジング家の一系統がもう一つの系統から持ち分を買い取り、IKEAにおいては創業者のイングヴァル・カンプラードが75歳にして未(いま)だに手綱を手放す勇気を持てずにいる。人が持っている権力を手放すのは難しいことなのだ。
また、同様に興味深いのは、この成功の鍵であろうと思われる企業文化である。H&Mは全ての大企業のリーダーが渇望してきた方法を発見したように見える。一万人の被雇用者や協力しあう多種多様な部署を抱えながらも、フレキシブルな小規模企業精神の最も良い部分を残している。IKEAの有名な倹約精神と簡潔さ等、とてもよく似ており、そのことはH&Mスタッフと始めて連絡を取った時にすぐにわかるほどだった。
驚くべきことに、H&Mスタッフ達はこの家具の会社(IKEA)はほとんど事務手続きばかりの巨大企業になっていて、無駄遣いが多すぎると考えていた。ただし、そうは言ってもH&M はIKEAの2分の1の規模であり、今後H&Mも同じ方向に進む可能性はあると、スタッフ達は謙虚に考えていた。
H&Mの知られざる内部
H&Mの魅力は大規模な事業を行いながら低姿勢を保ち続けるコントラストにもある。この企業は他社よりもずっと目立つ広告を掲げ、各ブティックは常に光とネオンに溢(あふ)れている。しかし役員と500名足らずのH&Mスタッフがいるストックホルムのサレーンヒューセット(メインオフィスが入っているビル)には、正面を飾るロゴもない。多くの不動産会社や行政機関に埋もれ、あの国際的企業の本部がここにあると示すのは、入り口にあるの小さなメタル看板のみである。このつつましさは、メディアに対するH&Mの、物静かで秘密主義を貫くイメージと重なる。
その“秘密主義”と言われるレッテルは、スウェーデンや諸外国の雑誌で特集記事が組まれるほどで、アーリングとステファン・パーションに対するインタビューが次から次へと行われても、そのレッテルはこの企業とパーション家から剥(は)がれることはなかった。
株式上場することによりH&MはIKEA等よりもかなり透明性の高い企業になった。そのため秘密を残していることに対する批判は受けたことがない。とはいえH&Mがその成功レシピの中に、何かしら重大な材料を隠し持っているに違いない。そうでないと延々と続くこの大躍進は説明できないと考えると、“その秘密とは何か? ”という問題が常に浮上してくる。
創業者自らが一貫した理念や示唆に富むビジョンを語る熱意も全くなく、また説明することもない。はたして秘密を持っているのか、いないのか。それすらわからないことから、その疑念に拍車がかかる。
インタビュアー達は多くの場合、ステファン・パーションの純朴さに魅了されてしまう。そして彼の経験を語る講演依頼にとりあえずは成功するのだが、なんだか味も素っ気もない内容だったという結果に至る。一・二年前、ストックホルムの実業家クラブでそうだったように。
「国王の挨拶を聴いているようなものだったよ」
参加者の一人はこのように表現した。
この掴(つか)みどころのない秘密を特定することこそ、この本の究極の目的であると言える。その中にはこの証言にある秘密主義の正体を解明することをも含まれている。企業文化の中にどこかこのような秘密主義の要素が見え隠れする。そしてそれを解明するための出発点としてアーリング・パーションまで遡ってみることが妥当なところだろう。
この本のプロジェクトを目にして父と子のパーションは、冷ややかで無関心な態度を示した。そしてそのことは私にとってそれほど大きな驚きではなかった。
「特に何か隠し事があるわけではありませんが・・・私達がどういうタイプの人間なのかご存(ぞん)知(じ)なのでしょうかねぇ・・・」
ステファン・パーションは私にこう言い放った。また他の出版社からゴーストライターを用いた自伝を提案されたことがあるが、丁重に断ったとも言った。
この状況がこの本のプロジェクトの障壁となることは簡単に想像できた。この時や以前に至るまで、彼らの友人達やスタッフ達に緘(かん)口(こう)令(れい)が敷かれている可能性もあった。私はこの時点で、H&Mとそのオーナーに対するスタッフたちの忠誠心は絶大であり、離職者にさえ近づくのも気兼ねする程であることを察していた。
この秘密の解明という大命題を前に、私は業界の専門家、アナリスト、それに数々のライバル達など外部の情報源に頼るばかりでなく、この取材にあたる関係者一同の人生に深く切り込む必要がある事を強く感じていた。ところが意外なことに、実は彼らも自ら持っている情報の乏しさに困っていた。そして結局のところH&Mの絶対的な強さについては、おのおのの独自の解釈を展開することしかできなかった。
幸いにもステファン・パーションは、どうあがいても一冊の本になってしまうとわかると、考え方を変えてくれた。前向きにとらえてくれるようになったのだ。その時には、彼は既に自分が業務で決断するやりかたについてある程度教えてくれていた。
彼が示したその断定的であり揺るぎない表現である
「お断りします」
という言葉は、何ヶ月後かには
「考えてみます」
という言葉に変わった。その間、どうやら深く考えてくれたようだ。更にその一ヶ月後、彼は諸(もろ)手(て)を挙げてとはいかないまでも、受け入れてくれる決断してくれた。
つまり彼はH&Mのスタッフ達がインタビューを受けること、そして自分も父親もある程度は受けることに賛同してくれたのである。ただ唯一の条件は彼ら二人が、印刷される前に原稿に目を通す機会を得ることだった。それは他の人々が“自分の発言”の引用を確認できるのと同様だった。彼らが干渉できるのはあくまで彼らが語った言葉のみであり、彼らの意見によって、作家側が文章を変えるといった約束を意味したことではもちろんない。彼らが本の内容に対して その影響力を行使する可能性はほとんどなく、あるとするなら事実関係を訂正する程度だった。ただ本編には差し障りがないが、この家族が他には知られたくないところに触れる部分において削除に同意することはあった。
「H&Mの中身を出版するということは、誰かが必ず苦しむことになるのです」
記述や表現に関して少しばかり深く追求しようとした時、こんな言葉がステファンの口からこぼれ出た。
私が話をした多くの人々からは、自分のコメントによりH&Mの文化には共感もできず公正さも全然ないと読者に受け取られることへの心配が見え隠れしていた。特に度を越えて謙虚さがなかった、規則に違反した、あるいは能力的に向いていなかったという理由で枠組みの外にこぼれていった人々、つまりH&Mから追い出されてしまった人々へ対し、この会社の方針は厳しすぎたのではないか? という疑惑が生じることを恐れたのだ。
「この会社の中に泥棒を置いておくわけにはいかんのですよ!」
アーリング・パーションの親友にして、古くからのビジネスパートナー、ビョーン・ヴェンベリィは突然声を荒らげた。私が覚えている限り、この一家の思想の底流に騙(だま)されることや盗まれることに対する恐怖があふれでていることを感じたのは、これが最後ではない。
万引き犯のことが話題に上ってもステファン・パーションが実際に激しい口調になることはほとんどない。だが一度、元H&M従業員でキネヴィック社創業者、ヤン・ステンベックに関してはかなりきつい口調でジョークを言ったことがあった。それは通じるものには通じる話だったようだ。
(キネヴィック社はスウェーデン最大のインターネットプロバイダであり、回線業者、通信業者、また衛星放送も手がける放送事業者でもある。グループ会社のコムビック(Comviq)はスウェーデンの格安携帯電話の会社で外国人旅行者などにプリペイドSIMを格安で提供している。)
「彼は実にいろいろなものを盗んでいきました。だから彼をあのまま残しておくわけにはいかなかったのです!」
ステファンはちょうど近くにいた入社当時、ヤン・ステンベックが直属上司だったスタッフに向かってそう言ったあと確認するように頷(うなず)いた。
秘密のベールに包まれたスタッフたち
これまで幸運なことに、ビジネスにおいて損をしないようにと常に意識を傾けなければならない状況に置かれずにすんだ我々、つまり私を含む会社経営を行ったことがない人々が、このような様々な問題をリアルに理解する事は難しいかもしれない。そんな立場の私ですら取材が進むに連れ、ある違和感を覚えることとなった。
それは私が常にH&Mで感じていた強い競争心、団結力、警戒心である。これらはこの創業者が敵意むき出しの世間で得た、妄想的とも言えるような経験が発端であり、そこでは一般的には最も脅威である万引き犯達でさえも多くのリスクのうちの一つに過ぎなかったという事だった。
そう考えると、私はこの企業に驚くほど受け入れられたことになる。それでも私は人ごみをかき分けるように進み、多忙なスタッフ達を様々な質問攻めにする“招かれざる客”なのだ。しかもどう答えていいか悩むような質問を浴びせる許可をトップからあたえられているのだ。立場的に難しいことに変わりがない。
普通のメディア側にいる人間にとってH&Mを訪ねると、無表情な受付カウンターを通り過ぎ、入り口にあるシンプルな会議室に通されるだけの難攻不落の要塞に思えるだろう。しかしその重い扉の一歩奥に入ると一風変わった大企業H&Mに根付いたイメージそのものがあり、リラックスした、時には感動的といえる程、オープンな雰囲気が漂っている。
強く記憶に残っていることがある。それは他社のCEO達のミニコンピュータや分厚いタイムマネージャーとは対照的に、ロルフ・エリクセンのスケジュール帳が信じられない程小さかったことだ。
私はロルフ・エリクセンの部屋の前を通りかかった時には開かれたドアをすっと通り抜け(常に開いていたが・・・)別に人手を介すことなくH&M式(?)にインタビューの約束を取ったものだった。ロルフ・エリクセンは近い週のスケジュール帳を開き、(そこで最も目立っていたのは英語のレッスンだったが)見た目ではあまり予定が入っていなかったようなときは、すぐにインタビューを予定に入れてくれた。他社のCEOは大抵複数のスタッフやアシスタントを周囲においているが、エリクセンには9階と10階にいる同僚達とシェアしているアシスタントが一人いるだけだった。廊下の向こう側にいるウッラ・ブレンニングだ。メインオフィスだけでなくこの組織全体の唯一の“秘書”である。
このコントラクトブリッジ(ポーカー、ジン・ラミーと並ぶ世界三大カードゲームの一つ。)マニアで、かつてアキレス腱(けん)が故障するまではスカッシュの名プレイヤーだった彼女は、長きに渡り4名のCEO達の門衛であり、ありとあらゆる業務をこなしてきた。そんな彼女ではあるが、本当の忠誠心は、彼女を30年前に雇用したアーリング・パーションに捧(ささ)げられているに違いないだろう。
ウッラ・ブレンニングのもとにはH&Mに関する切り抜き資料が保管されており、半世紀余りに渡るH&Mの事業が文書化されている。それらは1冊の税金対策書類(1冊しかないのか?! と驚いた)を含む、8冊のファイルで、新聞の切り抜き、いくつかの業務用書簡、一通の就労証明書、更に昔洋服を盗んだ女性からの後悔の手紙も入っていた。盗んだ洋服の支払いをしたい、という内容のものだった。
この記憶のかけら達を私はすぐに簡単に取り出すことができた。役員の郵便受けにも時折好奇心の眼(まな)差(ざ)しを投げかけるジャーナリストがコピー機を占領する姿に、いちいち眉毛を釣り上げる従業員もすぐにいなくなった。
それと同様に、以前は閉じられていた様々な扉が、全く予期せず開かれていった。それはバングラデシュの縫製工場、香港の製造オフィス、ハンブルグの中継倉庫へ至る扉の数々だ。私はそれまでトップシークレットだと思っていたH&Mのキーパーソンの名前を、サプライヤーの名前と同様にやすやすと手に入れることができた。
その寛大な対応は、単なる偶然の出来事ではなかった。この企業の最高責任者からゴーサインが出たことにより皆が肩の力を抜いて対応してくれるようになり、更に広報部長のクリスティン・ステンヴィンケルが何重にも立ちはだかっていた壁を打ち砕いてくれていたのである。つい最近までマスコミ関係者はH&Mのブティックに立ち寄ることさえ、歓迎されていなかったのだ。
もちろん一部の企業秘密に関しては、統制の取れた強固な守りを感じることもあった。ロジスティックマネージャーのニルス・ヴィンゲには、具体的な答えや数字を示す答えを要する質問は
「適切ではない」
「くだらない」
などとけんもほろろに突き放され、時には
「そんなんじゃありません」
というゼロ回答しかもらえなかった。彼はダッカにいるH&Mのスタッフはサプライヤーに対しても
『仕入れ値については口外しないように!』
と警告していた。
『具体的な数字は絶対に言わないでくださいね!』
ドイツのエリアマネージャーは、ゲルリッツの店舗のストアマネージャーにこのように言って注意した。ドイツのH&Mはグループ全体にとってポーランドやチェコへの扉であるゆえに更に口が堅くならざるを得ないようだった。
しかし厳しい現実を外部に隠蔽するといった事を除いても、H&Mの企業文化や組織の中には、過去や現在を客観的になかなか見ようとしない傾向が見受けられる。また配置転換などで担当が次々と変わってしまうので、過去と現在を定点で観測できる人間はほとんどいない。そして過去を調査するより現在からどう行動するかを優先するような環境であり、そこでは誰もが次の山を征服することを目指している。沈思黙考するとか過去を振り返って想(おも)いを寄せるなどという時間や余裕はまったくない。それよりもそのような考え方や文化自体が“H&Mらしくない”のである。
「H&Mは文書にして後から熟考するような企業じゃないんだよね」
広告宣伝担当のヤン・セーデルクィストは、コンサルタントの業務の後にこのような表現をした。
ほとんど過去の広告も、一枚の洋服も残されていないことからすると、会社の足跡や沿革を紹介することに、なんの興味も示さないようだ。H&Mの製品パンフレットでさえ、本当は信用できない。例えばその中ではコスメティック製品の販売が始まったのは1975年となっているが、調べてみると実際には少なくともその4年前から行っている。紳士服、そして子供服部門は、さらに曖昧になっており、1968年-70年の3年の間のどこかで設立されたことになっている。また細かく調査をすると、子供服はもっと前からあったが、1973年までは本格的には販売していなかったのだということも浮かび上がってくる。
取材の困難なところは、ほとんどと言ってもいいほど取締役会、特にアーリングとステファン・パーションがどのような話をするかによってすべてが決まっていくというプロセスが記録に残っていないことにも起因した。
「それはステファンに聞くといいよ」
「それを知っているのはステファンだけじゃないかな」
それがこの企業の歴史における、何か本当の核となる秘密に迫った時によく耳にした言葉だ。
どちらのメインオーナーも、新たな市場や分野に参入するなど大事な戦略上の決断は本当にわずかなトップの中で下している。またそれらは広範囲に亘る分析というより直感や経験から下されているように思われ、そのため後でその動機や結果を総括することが難しくなっているということだ。
伝説と伝統
H&Mの詳細を熟知している幹部たちに接すると、彼ら自身が伝統そのものとかH&Mの魂の守り人のような印象を受ける。そのためむしろ情報源としては扱いにくいことがよくあった。
彼らはグレーな現実を緻密に語るより、お花畑のように理想を語るのが好きなのだ。私は始終、H&Mとは皆が思い描くよりももう少し計画性のある組織化された、そしてもっと”一般的な”企業であると思っていた。でもどうやらそうでもないらしい。
ステファン・パーションの右腕であるエコノミスト、ヤン・ヤコブセンは少々伝説を彩る美辞麗句に酔ってしまう傾向がある。新たな国に参入することは昔と変わらず“一足のよそいきの靴を買って”そこへ見物に行くかのような表現をする。しかしそんなはずはないのだ。
「結局、決めてとなるのは、ブティックの立地ですよ」
ヤコブセンはアーリング・パーションが昔言った言葉を引き合いに出して誇らしげに言った。
ヤコブセンはこのH&M本社のビルの中では皆がいかに平等で肩書きに縛られないかを示すために、彼自身が電話帳にまだ“学生”として名前が載っていることを挙げた。しかしその時には我々の取材チームは既に、購買組織と販売組織のどちらにも厳しい上下関係があり、ブティックの事務所にある書棚が本部で制作された人事ファイルで埋まっていることも確認していた。どうやらヤコブセンですらも伝説を紡ぎたいうちの一人のようだった。
同様にH&Mの従業員が出張時、移動はエコノミークラスだが、宿泊は居心地の良いホテルを取っていることも確認した。あるベテラン社員によれば、彼らはヒルトンを予約するわけではなかったが、かといって“ごきぶりの出るようなボロボロのホテル”に泊まるわけでもないと述べた。
二人の重要なキーパーソン、ファビアン・モンソンとマックス・フェリクソンはインタビューを頑として断られ続けた。後者のフェリクソンは伝説的な購買部長であり、長年に亘りアーリング・パーションの築いた企業文化の一番の後継者とも言える人物だ。
フェリクソンの寡黙さはある意味理にかなっていた。なぜならば彼は内部組織を厳しく統括し、外界に対して固く扉を閉ざす会社の方針を推し進めていた立場にずっといたからだ。表舞台からのあまりにも早すぎた退場は彼の心の中に苦い後味を残したが、H&Mスタッフの間では彼の退場はベルリンの壁の崩壊に例えられているほどエポックメーキングな事だったようだ。
またモンソンの慎重さは、突然の退職からまだわずかな時間しか経過していない事と、その後に噴出した問題を考えれば不思議ではない。IT企業スプレイ社の中での彼の立場は、決して楽なものではなかった。スプレイ社の花形におさまったまでは良かったが、実はITの激しさについていけないほど彼の能力は衰えていた。H&MのかつてのCEOは音楽分野のスカウトを行う、スプレイ社の子会社スプレイタレント社で社長になり、最後はひっそりと退職した。
この本のプロジェクトが進行する間に、H&Mは1995年から続く最悪の低迷期を味わった。いくつかのインタビューが突然キャンセルになった。スタッフがいつもより固く口を閉じた理由は低迷にあるのかもしれないが、その一方で私は、“危機”がH&Mにもたらした大きな反省と再興への渇望を間近に見ることができた。
偶然にも私はフランスで現場が大混乱に陥り、現地法人の前H&M代表取締役社長が無情にも交代させられる現場に飛び込むことになった。取締役会は、情報公開は削減するべき不要なコストとは言い切れず2001年1月、H&Mは四半期報告を行うプレスカンファレンスを初めて催した。その催しは私に見せたある程度まではオープンにする対応と同じような方向性の表れになった。
広報部長のクリスティン・ステンヴィンケルが全力で手助けをしてくれたばかりでない。インタビューを受けた人々の多くが自発的に、競馬場にいる予想屋のごとく、私が賭けるべきダークホースを教えてくれた。私は時折自分が、今まさに化学反応が起きようとしている一企業に入り込んだ、触媒になったような気分になったものだ。多くの人々がこの企業の歴史が物語になるのを待ち望んだ。なぜならば彼らは自分の企業を誇りに思い、彼ら自身がそれに興味を持っていたからだ。
「あなたの方がきっと私達よりもよく知っていますよ」
この言葉は頻繁に私が耳にした言葉であり、H&Mが従業員自身にとっても秘密だらけの企業であったことを反映していると言ってもいいだろう。
しかしステファン・パーションと彼の父親にとってみれば、H&M、そして間接的にはパーション家に関する情報を話すことにより不必要に従業員の立場が危うくなることを恐れた。またH&M内部で活躍しているスタッフに想定を超えるスポットライトが当てられることで、彼らが業務への集中力を欠いてしまうことが心配だったようだ。
「この本が語るのは私たち家族ではなく、この会社についてでしょう?」
ステファン・パーションは家族について質問を受けると、時折私にそんな風に注意をした。家族と言っても、多くの場合はステファン自身を指していた。時には創業者の父親のことを含んでいることもあったが。
私がインタビューしたほとんどの人々(おそらくはステファン・パーション以外全員)はH&Mを同族会社だと考えている。そのような企業の描写において、オーナーの人間性や人生の軌跡に触れなければ、この物語は単に目立つだけで内容のうすっぺらいものになってしまう。そう考えた時、私はそれらすべてを掴(つか)むことに決めた。ヘネス&マウリッツの物語の主題は洋服ではない。首尾一貫して、ある男性のビジョン、もっと言えば不屈の頑固さ、目的意識、そして人間に対する深い洞察力が主題なのである。