H&Mと日本

H&Mと日本

H&Mがやってきた

『彼女はH&Mを日本に連れていこうとしている』

ダーゲンスインダストリ(日刊産業)新聞は2005年3月8日、クリスティン・エドマンをそう紹介した。クリスティンは日本人とアメリカ人のハーフで、そのころはまだストックホルムにいる上昇志向の強い大学生でしかなかった。しかしあっという間に、彼女は自分の夢を叶(かな)えることになる。
2008年9月13日、銀座の最も有名な十字路にその素晴らしい舞台は現れた。期待に胸を躍らせた5,000人の日本人が1ブロックごとに行列を作っていた。メディアの注目も大々的で、そのうちの一つのテレビ局はその光景を良いアングルで捉えられるようにヘリコプターをチャーターしていたほどだった。
それはH&Mの歴史の中でも類を見ない、8年前のニューヨーク五番街でのアメリカ合衆国デビューに匹敵するような劇的なオープニングだった。日本進出は入念に準備が行われていたが、関係者すべての予想を上回る熱狂的な歓迎ぶりだった。

「日本では誰も行列など作らないと言った人もいましたけどねぇ」

どちらの劇的な瞬間にも立ち会ったH&Mの代表で主要株主のステファン・パーションがつぶやいた。
また当時、事業拡大プロジェクトマネージャーだった息子のカール-ヨハン(現最高経営責任者(CEO))も東京に来ていた。
東京でも銀座はこの国で“超一等地”のビジネス街であり、驚くほど高級な立地と言えた。ある面、その最高級の環境では、品格としてH&Mは少々浮いているような感じさえあった。しかしそのことは取りも直さず、ニューヨークと同じようにまたH&Mのビジネスモデルと価値あるファッションは世界のパレード通りの群を抜いて高額な家賃にふさわしいのだ、という自信を示す強力なPRにもなり、メッセージにもなった。
しかし日本でのデビューにはすぐに暗雲が立ち込めた。なぜならその2日後、よりによってニューヨークでリーマン・ブラザーズが破綻し、いわゆる“リーマンショック”が発生してしまったからだ。それは世界が陥った1930年以降で最も深い経済危機のプロローグだった。しかし今になって思えばH&Mにとっては珍しく明らかに悪いタイミングに出店した、というだけの事でしかなかった。これは初めての出来事ではなく、以前にも経済的不況で人々が財布の紐(ひも)を固く締める時期だからこそ、H&Mが市場のシェアを勝ち得たことは幾度となくあった。
結局、この日本での展開計画に障害が生じることはなく同年11月8日、銀座とは人々や環境のタイプがまったく違う、ホットな場所・原宿に新たな店がオープンした。

「銀座がNYでいうところの五番街なら原宿はNYのSoHoみたいな所というイメージですね」

2014年、引き続き日本国内で取締役社長を務めているクリスティン・エドマンがこのようにインタビューに答えてくれた。
この第2号店のオープンに弾みを付けるため、H&Mは2008年の秋に日本の有名なデザイナー、川久保玲(れい)氏とコラボレーションを行った。彼女は東京発のファッションチェーン、コム ・デ・ギャルソンの創業者である。彼女のコレクションはまず日本で発表され、それから数日後、世界各国で発表された。そのため戦略上非常に重要な企画、つまり日本向けの商品開発に向けて大きく舵(かじ)を切る事ができた。
厳選された高級な製品を扱うファッションデザイナーを起用することは、H&Mのマーケティングの手法としては比較的新しいクリエイティブな発想のひとつだった。(それが導入されたのはこの本が始めに出版された2001年の直後のことだった。)それはちょうどスーパーモデルが毎年クリスマスにランジェリーを宣伝するようになった時と重なっている。
あれから6年後、日本は約40店の店舗と3,000人になろうとしているスタッフと、30億クローナの販売実績を抱える市場となった。大規模に急成長したといえるだろう。2013年の販売実績は日本円で計算したところ、46パーセント増加した。ただし同グループ企業の基軸である通貨、スウェーデンクローナでは“わずか18パーセント増”に留(とど)まることとなった。つまり日本円の弱さが成功の妨げとなっていて、輸入の経費が高くなるため利益を押し下げていたことになる。
その後、日本での拡大のブレーキとなった想定外の要素は、言うまでもなく2011年3月、国家規模の損害と悲劇を招いた東日本大震災だった。この震災は三重苦をもたらせたと言える。社会はショックを受け、個人は地震と津波の被害、またそのようなことにあわなかった人々も、福島からの放射性物質が降り注ぐことに脅かされることになった。多くの他の企業と同様にH&Mも安全性を確保するために閉店や移転を余儀なくされた。店舗が再び開店しても輪番停電のため、文字通り暗闇の中に佇(たたず)むこととなった。東日本の街の雰囲気は沈み、買い物客達がいつも通りに買い物をするようになるまで、何ヶ月もかかることとなった。
そのため2011年は売り上げの上昇カーブに大きな切れ込みが生じた。ステファン・パーションはもしあの震災がなければ売り上げ実績は40~50億クローナに達したはずだと考えている。昨年、日本ではH&M が進出している国々(当時53カ国)の中で17位だった。

「私は、日本は2020年には世界の大規模市場の中でもトップ10に入っていると思っています」

ステファン・パーションはこう述べた。

リスト上ではスウェーデンが5位となっているが、2007年に進出した、中国があっという間にそのポジションを奪おうとしている。成都には昨年H&Mとして3,000件目の店舗がオープンした。H&Mは日本に続いて東アジア、つまり韓国、シンガポール、マレーシア、タイ等に代表される世界の新たな経済的重要拠点、東南アジアと極東にフォーカスしている。2014年オーストラリア、フィリピン、そしてインドを制覇する計画がスタートした。
この広い地域にはまだ10店もない。しかし当然ながら秘めている可能性は膨大である。中国、バングラデシュ、カンボジアといった大規模な製造国の近くにこのような国々があることは、コスト上有利であることは確実だ。これらの国々の間に旅行や観光が盛んになるという事は、たとえ近隣の国々の衝突による後退があったとしても、ビジネスは加速する。東京が中国人や韓国人の買い物客で賑(にぎ)わっているように、日本人や他のアジア諸国の観光客は香港、北京、ソウルにとってビジネス上大変重要になっている。
またヨーロッパと同じ様に、極東でもH&Mはスタッフ達が魅惑的な新たな挑戦を仕掛けることによって、内からの相乗効果を引き出す事ができている。誤解を恐れずに言うと、かなり遠く複数の“隣国”においてもそのようなことは起きた。
あの2008年の秋の日に銀座で多くの人々を店に迎え入れた日本で最初のストアマネージャー、南浦賢一は何年か後に、この地域(極東アジアエリア)の統括部長になった。その後、彼は日本同様、2014年4月、劇的にオープンする新たな店の準備チームに加わった。-それは東京から8,000キロメートル離れた隣国、飛行機で10時間もかかるメルボルン店だった。